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サッカー元日本代表の第二の人生

作成者: Admin|2024.02.08

 

サッカー選手「徳永悠平さん」 のセカンドキャリアを歩むことでの変化

Q:引退し、セカンドキャリアを歩み始めて 3年が経ちますが、現在の心境はいかがでしょうか。

徳永悠平: あっという間でしたね。がむしゃらに過ごしてきたので。Jリーグという華やかな世界に18年いて、そこから全くの異業種の仕事を一から覚えていく難しさが正直あったので、引退した後は想像以上に大変でした。コンクリート製品を覚えるところから始まり、取引先や営業先への訪問、そして2年目になった頃からようやく実際の営業活動などを行い、価格交渉をしたり、自社製品のアプローチを行なったり、と新規取引先を開拓なども常々意識しています。最近になって、ようやく仕事ができているのかなという感じがしています。

Q:プロサッカー選手を仕事にしていたときと比べて、ご自身が一番変化したところってどんな部分ですか?

徳永悠平:プロサッカー選手だったときは、もちろんチームとしてもですが、ある意味、自分が結果を残すことだけを考えていれば良かったんです。でも今はそうじゃない。従業員やその家族の生活も背負っているということですね。以前、従業員の一人から「頼むぞ。うちは子どもが小さいけん、4人の子どもを育てんといけん。」 って言われたことがあるんですけど、そういう声を聞くと、改めて従業員や、その家族の皆さんの分まで、しっかりと背負って仕事をしなくちゃいけない。何としてでも結果を出して、信頼してもらわなきゃいけないという強い思いを持ってやっています。

              

                                    ©Mao Shimizu

Q:現在は本業がある中で、本業以外にも会社を興し、サッカースクールやアスリートマネジメント、さらには農業などもやられていると伺いました。

徳永悠平:今の自分があるのはサッカーがあったからです。引退したら、サッカー界やアスリートには何らかの形で必ず貢献したいと思っていました。将来的には、セカンドキャリアに悩む元プロアスリートを迎え入れて一緒に仕事をしたり、やりたいチャレンジに対して背中を押せる人間でありたいと思っています。その為にも、本業の経営をまずは安定させなければならないですが、それと並行して、自分がお世話になった、サッカー界やアスリートの世界に「恩返し」ができるような事を、色々な出会いや、経験、つながりを大事にしながら広げていきたいと思って動いています。自分にできることは、何でもチャレンジしてみようと常に思っています。子どもたちへのサッカー教室なんかも、自分が小さい時、イベントでプロの選手に教わった事があるのですが、自分がプロになってからも、その嬉しかった喜びや刺激が思い出として 常に心に残っていました。プロって、子どもたちに夢を与えらる存在なんだ。と常に意識をして過ごしていたので、引退はしているものの、その意識は常に忘れないようにしています。引退してからでも、子ども達に何かきっかけを与える存在になれるのなら嬉しいですし、自分自身も、この活動は気づきや学びを得る機会になっています。 本業とは全く違う動きにはなりますが、意外と本業との繋がりが出てきたり、本業にもプラスになる発見があったりと、視野が広がりますし、メリットが沢山ある事にも気がつきました。何より動いていて楽しいというのがありますね。スポーツ、サッカー、体を動かすことや考えることが本当に好きなんだなと。なので子どもたちにも、まずは楽しもうよ、自分でまずは考えようよ、と常に伝えるように意識しています。また、農業も時間を見つけて取り組んでいます。幸いにも周りに農業従事者の方々が多いのもありましたし、環境が素晴らしい。農業に触れてみて感じたことは、農業とスポーツのポテンシャルにすごく親和性を感じているということ。体を作る、「食」という観点からも大事になっていくし、身体性、地域性、危機管理能力や向上心、 メンタルコントロールなども重要になってくる。後継者不足や、耕作放棄地の問題などとも、ピッタリなんですよね。セカンドキャリアで困っている選手と農業の関わり方など、今後のアプローチの仕方などを模索していますね。

                                                                                                                                

                                                     ※本人提供

                                        ※本人提供

                                                     ※本人提供

日本一を目指し、達成した高校サッカー時代のトレーニング・練習について

Q:徳永悠平さんといえば、やはり長崎県の名門「国見高校」ですが、高校時代はどのような環境でしたか。

徳永悠平:メディアでもよく取り上げられたりしているので有名な話だと思いますが、小嶺忠敏監督の元で非常に厳しい練習を、3年間やり続けましたね。とにかく厳しかった。走って、走って、また、走って、という感じです。(苦笑) 環境でいえば、周りに山が多いので、山道を何キロも走る。とにかく走る。そして練習をする。の繰り返しでしたね。県外から来ている選手も多いので競争も当然激しいですし、とにかく生き残っていかなければ試合に出れないので、毎日必死でしたよ。とにかく高校時代は苦しかった思い出ばかりです。今となっては有難い経験をさせてもらったと心から思っています。 一個上に大久保嘉人さんなどがいましたし、他にも沢山の大きな存在が身近にいたので。全国優勝を目指すのが当然だった環境に強さがあったと思います。

Q:その中で徳永悠平さんが常に意識していたことなどはありますか?

徳永悠平:当時はがむしゃらで、目の前の日々に必死だったんですが、今振り返ると、そこが重要なポイントだったかもしれませんね。とにかく妥協しないこと。日本一だろうと言われる厳しさにくらいついていく事。日々、手を抜かず、一日一日を勝負と捉えて闘っていたので、そこは大学に行っても、プロになってからも、自然に「日々のトレーニングを大事にする」という習慣化ができていたことが大事なポイントだったかなと思いますね。自分自身に負けそうになる時もありましたが、みんなで励まし合って、「日本一」という先輩方が積み上げてくれた、共通の目標設定、国見高校のフィロソフィーがあったので、みんなで頑張れたんだと思います。小嶺忠敏監督から学んだことは今でも自分の指針になっています。学生の頃に感じたことや経験というのは大事なんだな、恩師に恵まれた人生だなと、つくづく思いますね。

                                                     ※本人提供

プロサッカーという選択肢ではなく、大学サッカーを選択した理由

Q:高校では沢山の日本一を獲得し、全国の舞台で大活躍をされました。Jリーグチームからのお誘いもあったと思いますが、なぜ、大学を

徳永悠平:そのころから将来は父親が経営する会社を継ぐかもしれないと考えていたので、親も私自身も、大学に進学した方がいいだろうと考えていたんです。その時に、早稲田大学からけっこう早いタイミングで推薦をいただき、小嶺忠敏監督からも「お前は絶対に大学に行った方がいいよ。」と言われて、「名門の早稲田大学に行けるのならいいよな。先生が言うのなら。」って感じで決めました。なので、他にオファーがあることは聞いてましたが、具体的なチーム名などは全く聞かされていないんですよね。()

Q:その当時の早稲田大学はカテゴリーが下だったと思います。裏を返せば、その成績でも徳永悠平さん自身は、FC東京の強化指定選手になったり、大学4年のときはユニバーシアード代表に選ばれました。大学の時はどんな意識で過ごされていましたか。

徳永悠平:4年生のときに、ようやく関東1部リーグへの昇格を決められました。なので、私自身は一度も大学のトップリーグでプレーできないまま卒業しましたね。でも、とにかく自分がチームを引っ張っていくんだ。という強い気持ちで過ごしました。強化指定でチームを離れることも多かったんですが、特に4年生のときはキャプテンに選ばれたので、まずは早稲田。このチームで昇格を目指して、自分がここにいる意味、結果を出す。早稲田で勝つんだという、強い思いでしたね。カテゴリーが低いからパフォーマンスが発揮できないというのは違うと思うし、絶対昇格させるんだ。という明確な目標設定を行ったので、目標から逆算して何をすべきかを常に考え取り組みました。あとは、この先プロに進むにしても、一度自分をフラットな状態にしてチームを選びたかったというのもありましたし、4年次には、強化指定選手として選んでいただいていたFC東京の練習にもあまり行かずに、キャプテンとしてやりきること、早稲田大学で結果を出すことや、チームのマネジメントに集中しましたね。

 

プロサッカー選手徳永悠平さんの誕生。その時の思い

Q 卒業後は FC 東京に入り、V長崎も合わせると18年の現役生活。Jリーグ功労賞も受賞されました。日本代表、そしてオリンピック代表は2回、特にロンドンオリンピックではオーバーエイジでの選出でしたね。

徳永悠平:長くやれたのは、日々の練習からのパフォーマンスを発揮すること。そして怪我をしないこと。などももちろん大前提がありますが、FC東京で複数のポジションをやっていた経験が大きかったですね。右サイドバックだけではなく、左でもプレーしたし、センターバックやボランチでも、プレーさせてもらいましたからね。その経験は長くキャリアを続けることができた要因であると強く感じています。 日本代表も経験できましたし、特にロンドンオリンピックはオーバーエイジ枠だったので、本当にプレッシャーがかかりました。 年上の自分が、若い勢いのあるチームに入っていくなかで、本当にプレッシャーはすごかったですよ。正直、初めはどうにかして断ろうかと思っていました(苦笑)。でも早稲田大学の先輩の原博実さんと、関塚隆さんに言われたら、もう無理だと、良い意味であきらめましたけどね。 (苦笑)

                                         ©️Getty Images/Christopher Jue - JL

Q 結果的に、本大会では準決勝まで進出。徳永悠平という選手のキャリアのなかでも、大きな1ページになりました。

徳永悠平:もしグループリーグで敗退したら、日本に帰ってくることはできないと思っていました。だから大会が始まる前は緊張していたし、震え上がっていましたね。国を背負って戦う。しかもオーバーエイジなので。「もっとすごい選手入れろよ」って思う人も多くいたはずたなので、準決勝まで行ってホッとしました。それが正直な本音ですね。そして、個人的も本当にありがたい大会でした。サッカー選手としての価値も高められたと思うし、知名度も上がったと思いますが、何より人として更に成長できたと感じています。あのプレッシャーの中で闘えた事によって、自分の中では、 気持ち的にもまだやれるという自信になりました。だから長く続けられたのかもしれないです。だけどメダルは取りたかったです。カタチに残したかったので、そこは悔しいですね。取ると取らないでは全く違うと今でも思います。それと、やっぱりW杯に出場していないのが自分の中では心残りですね。 自分自身やり切った感覚で選手として終えていますが、唯一の心残りは「W杯に出たかった。」という事ですかね。

                                                      ©️Getty Images/Stanley Chou